「密かなる決意表明。」
いってらっしゃい。
そう彼をいつも通り送り出した黒子はすぐさま動き出した。
黙々と自分の持ち物をキャリーケースに詰め込み始める。
彼に、赤司に気付かれぬようにとしばらく前から要らないものは少しずつ処分していた。
赤司との同棲を初めて数年経ったこの場所は、黒子にとって大切な場所であった。
おはようからおやすみまでを一体何度二人で迎えたことだろう。
たまに一人のときもあった。それなりに喧嘩や争いなんかも乗り越えた上で、それでも一緒に過ごしてきた大切な場所。
きっとなんだかんだと二人らしい日々を歩んでいくものだと思っていた。あの日までは。
きっと赤司は今もそう思っているのだろう。自分を愛おしむように目を細めて名を呼んでくれる彼の表情は幸せだと謳っていた。
だって黒子は赤司に何も言っていないのだから、知らなくて当然なのだ。
着々と心の準備はしていた。
けれどもいざその時になるとどうしたって動きを止めたくなってしまう。
ぽろぽろと溢れる滴は重力に逆らうことなくぱたぱたと床に落ちてゆく。
落ちては拭う動作を一体何度繰り返したことだろう。視界が霞んでしまうも、それでも手を止めてはいけないと一体何度自分自身に言い聞かせたことだろう。
とまれとまれと願いつつ、ぎゅっと瞑った瞳のせいでまたさらに頬に一線が描かれた。
自分が決めたことだ、今更引き返すことなどできないしするつもりもない。
少しずつ、少しずつ準備をしてきたのだ。
本当は、もっと早くこうすべきだったのかもしれない。
けれど彼との日々が黒子にとっては大切で手放し難いものとなったために引き伸ばし引き伸ばしでここまできたのだ。
ようやく決心がついて決行を決め今日、去ることは少し前から決めていたことだった。
当日はいつも通りおはようの挨拶をして、キスをして、彼を見送って、そうして自分は─────
自分なりのシナリオを描いていたのに。
まさか昨晩、明確な言葉をもらってしまうなどと微塵も思っていなかった。
そのおかげで今、黒子の心は揺らいでいる。
揺らぎつつも、これは決定事項だと動きを止めぬように手は動かした。
あんなに熱烈に自分がいいと言ってくれた人への裏切りに近い行為だとは理解している。
貰った言葉には、心が震えるほど嬉しくて、同時に言葉にするには感情が追いつかない想いも溢れてしまい、ただ泣きながら笑顔で了承する他なかった。
本当にこんなつもりではなかったのだ。
了承したことで彼を縛るだなんて、とんだ酷くて狡い人間だと自分でも思うのに、それでも断ることはできなかったのは惚れた弱みゆえだろうか。
自分にとって赤司征十郎という人間は誰よりも大切にしたい人で、なくしたくない人で、黒子の生きる意味であった。そんな人に黒子は今からひどいことをする。
失敗か成功かのビジョンは正直見えないので何とも言えない。
もしかして全てがうまくいったとて、許してもらえないかもしれないし、そもそも、うまくいかない可能性だってあるのだ。上手くいく自信なんてない、ただやらねばならぬという思いと、たった一つのゆるがない想いがあるだけ。
「赤司くん……ボクを許してください」
キミを縛ってしまうボクを、
キミに今から酷いことをするボクを、
キミを、愛してしまったボクを。
震えそうになる手を押さえつけて、黒子はペンを取る。事前に用意していた紙を前にして書きたいことはたくさんあった。けれど余分なものはいらないのだ。
たった一言だけを綴る。
文字を書きながら溢れるように頭に湧いたのは彼への言葉。
ごめんなさい
愛してます
赤司くん、ごめんなさい。
心はぐちゃぐちゃで思うことはたくさんあったものの黒子が書いたものはいつも通りの癖が出た短いひとことだった。
赤司と比べると随分と幼稚な字に見えるかもしれないなぁ……なんて見当違いのことを思ってしまうのは現実逃避をしたかったのかもしれない。
存外時間はかからずに準備は終えた。
最後は彼との思い出の詰まったこの場所を去れば完成する。
彼の物の隣に並べていた自分の物たちを失くすだけでまるで自分の存在は最初からここに居なかったかのようであった。
乱暴に目元を拭う。
もたもたしていると全てが台無しになってしまうかもしれない。
大きなキャリーケースを持って玄関に行く。
靴を履いてなんとなしに爪先をトントンと鳴らしてみた。
振り返り、部屋を見つめた黒子はひとつ、大きく深呼吸をした。
きっと、きっと成し遂げてみせるから、だから
ボクを信じて、赤司くん。
じわじわと込み上げる目頭の熱を無視してふぅーっと息を吐く。考えるよりも先に出た言葉はまるでいつもの日常となんら変わらぬ温度と響きが乗ったものだった。
「赤司くん、いってきます。」

「密かなる決意表明。」
提供:キムチ鍋食べたい。様