「邂逅は祈りの狭間にて」
慈しむように、愛を囁くように、名前を呼ばれた。それは目の前に立っている大切な人。朽ちた教会の窓から柔らかい光が差し、その顔は逆光で見えない。重ねた手の体温と、澄んだ声を覚えている。
どこかで聞いたことのある誓いの句が紡がれ、参列者のいない静謐な空間を震わせる。返事をしようとして、深く息をした。耳朶に響く鼓動の音。溢れ出した感情が喉を鳴らす。絞り出した言葉は祈りにも似ていた。ふと、頬を伝う涙に気がついた。
目を開ければ、見慣れた部屋の天井がそこにある。
「……まただ」
何度目かわからない、また同じ夢を見ていた。
赤司は仕事を終わらせて、帰路に着いた。無人の家のドアを開けると、薄暗い室内が目に入る。
「おかえりなさい」
そう聞こえた気がした。だが、そんなことはあり得ない。なぜなら、そう言ってくれるはずの恋人が半年前に突如失踪したからだ。連絡もつかず、行方不明のまま、無情にも季節は流れていく。仕事の合間を縫って捜索に精を出す日々だが、目立った成果は得られていない。零した小さなため息は、無機質な部屋の沈黙に溶けた。
赤司はその静けさを紛らわすようにテレビの電源をつけた。ニュース番組が流れ、今日の出来事を解説している。気まぐれにチャンネルを変えてみれば、芸能人の地方ロケ番組が流れている。画面には、見知った旧友である黄瀬が映っている。若手の人気俳優として着実に知名度を高めている黄瀬は、こういったロケにも参加することが多いのだろう。
ぼんやりとテレビを眺めていたところ、赤司は落雷のような衝撃を受けた。画面の真ん中では芸能人たちがトークをしているが、後ろの雑踏を空色の髪の青年が通って行った。
「黒子…?」
まさか、と思い凝視したが、その横顔は確かに黒子テツヤであった。恋人として何度も近くで見てきた赤司が見間違えるはずがない。
赤司は携帯を取り出し、通話ボタンを押した。
「赤司っち?お久しぶりっス!」
「久しぶりだね、黄瀬。急に電話して悪い。少し聞きたいことがあるんだ」
「…なるほど、オレの出演した地方ロケで偶然、後ろを黒子っちが通っていたと。でも、ちょっとおかしくないっスか?」
「そうなんだ。黒子が無事だったとして、どうして旧知である黄瀬に声を掛けなかったんだ?それに、オレ達に何も言わず行方不明のままなのもおかしい。黒子の両親は、今も黒子が生きているのかすら知らないはずだ」
「その時は収録中だったとはいえ、ずっとカメラ回してた訳じゃないし、どこかで声くらい掛けてくれてもいいはずなんスよ。それにずっとオレ達や、恋人である赤司っちに連絡しないのも変っスね。…もしかしたら、黒子っちに何かあったのかもって思うと、オレ心配で」
黄瀬の声に不安が滲む。黒子が現在までずっと連絡を絶っていることから、考えたくはないが何かの事件に巻き込まれた可能性もあるだろう。
「黄瀬、そのロケをした場所を教えてくれ。オレが明日から探しに行く」
「了解っス。ロケがあったのは○○町っていう街っスよ。黒子っちが心配だから本当はオレも探しに行きたいけど、明日から長期の仕事で海外に行かなきゃならないんス。黒子っちのこと、任せていいっスか?」
「ああ、任せろ。オレの恋人だ。オレが必ず、黒子を見つけ出す」
貴重な情報をありがとう、と感謝を伝えて電話を切ると、赤司は早速荷造りをした。そして黒子が生きている可能性があるという話を伝えるため、連絡先のメモを取り出した。
飛行機で数十分、着いた空港からタクシーへ乗り継ぎ、赤司はその街の中心に降り立った。人口もそこまで多くない港町は、活気もそこそこで落ち着いた雰囲気をしている。夕方の潮風があたりを吹きつけ、厳しい冬の寒さをもたらした。雪が無いのは幸いだったかもしれない。荷物を宿に預けると、赤司は黄瀬が撮影をしていた場所へと辿り着いた。
(ここが例の場所か)
見渡しても、黒子は見当たらない。影が薄いとはいえ、透き通る空色の髪と瞳は見る者の印象に残るはずだ。
(…地道に聞き込みをするしかない)
目撃情報があるだろうか。赤司はそう思い、胸ポケットに入れていた恋人の写真を取り出した。
「黒子。絶対にお前を見つけ出すからな。待っていてくれ」
そうして早速、近くを歩いていた地元住人に声を掛けた。
「…ここも手掛かりなし、か」
赤司は手元の地図に情報を書き込む。宿の簡素な机に広げた地図に、捜索した範囲をプロットしていく。映像で黒子を確認した場所の周辺地区で、しらみつぶしに聞き込みをしているが、いまだ手掛かりを得ることが出来ていない。既にこの街へ来てから四日が経っているが、目撃情報は皆無に等しい。行き詰まりの状況となっていた。
市街地のあたりは概ね調査したから、明日はもう少し山間部の方に行くべきだろう。そう思い、地図を見ていると、市街地から離れた場所で山に近い集落があることに気がついた。目撃情報が市街地では無かったことからも、人のさらに少ない場所に黒子がいる可能性がある。
しかし悠長にはしていられない。自分とて仕事を放り出してここに来ている。社長としての仕事が滞り続けるのは、会社の存続に関わる。今は副社長に全て仕事を任せてきたが、あと二日程度で戻ってきて欲しいと秘書からのメールが来ていた。
それに、赤司は東京を出発する直前に黒子の両親へ連絡していた。もしかしたら黒子が見つかるかも知れないと伝えれば、彼らは電話越しに涙を流していた。
元々は赤司が黒子に求婚した後、黒子は両親へ赤司と結ばれたい旨を打ち明けたそうだ。同性の恋人、ということで彼らが反対した結果、”旅に出ます”という書き置きを残して、黒子は姿を消した。そのことを、黒子の両親はずっと悔やんでいるようだった。
「テツヤが生きてさえいれば、それでいいんです。私たちとの縁を切ってくれたっていい。……あの子が幸せでいてくれるなら、私たちはそれで充分なんです。赤司さん、どうかあの子をよろしくお願いします。どうか、テツヤを幸せにしてあげて下さい」
黒子の両親は泣きながら赤司に懇願した。それを受け、赤司としても絶対に黒子を見つけ出さなくては、と強く決意したのである。
地図への書き込みを終えて、赤司は明日に備えて早く寝ることにした。胸の内に広がる焦燥を打ち消すように、部屋の電気を落とした。
冬の冷気が肺を刺すように痛い。赤司は急峻な峠道を歩いていたが、勾配がきつく息が上がりそうだった。まさかこんな険しい道だとは思わなかった。注意していなければ、容易に怪我や事故に繋がりかねない。実際、冬季でなくともここでの転倒や転落の事故が起きていると、宿の受付で教えてもらった。天気が雲ひとつない冬晴れなのは、幸運だったのだろう。
しばらく道を歩き続けると、川に架かる橋があらわれた。慎重に渡り、山間の小さな集落に入った。辺りにはぽつぽつと民家が点在しており、俗世から少し離れた場所なのに、どこか生活感を漂わせていた。
集落の入り口近くにあるその教会に、赤司は目を惹かれた。それは、お世辞にも綺麗とは言いがたい状態であった。しかしどこか荘厳で、寂れた外壁や窓には長い時が眠っている。赤司は、この教会を見たことがある気がした。正確に言えば、記憶に残るあの時の教会と、非常に似ているのだ。赤司は何かの縁を感じ、その中を覗いてみたくなった。
かつて交際も順調であった頃。二人で街を歩いていた時に、小さな教会を見つけた。黒子が中へ入ろうと言ったので、赤司もつられて入った。建てられてから相当な年月が経過しているようで、装飾は朽ちかけていたが、黒子はその雰囲気が気に入ったようだった。黒子は十字架の前に歩み寄ると、赤司に向かって何気なく呟いた。
「教会って素敵ですよね。ボクたちは結婚式をすることも難しいですから、憧れてしまいます」
「結婚に、憧れているのかい?」
「はい。大切な人と、一生を誓うんですよ。とても幸せなことだと思います」
それを聞いた俺は、衝動的に、誓いの言葉を口にしていた。黒子は涙を流して喜んでくれたが、その後両親との口論によって黒子は失踪したのである。
入り口に立ち、深く息を吸った。重厚な扉をゆっくりと押し、内部へ足を踏み入れる。褪せた光が、視界に舞う埃を美しく彩っている。やはり内装も、あの時の空間と似ている箇所が多い。ふと、十字架の前で膝をつき、静かに祈りを捧げている人物に、赤司は目を見開いた。後ろ姿で顔が見えないが、水色の髪をしている。
「……黒子?黒子っ!」
無我夢中で駆け寄り、肩に手を置く。ゆっくりと振り向いた彼は、紛れもなく黒子テツヤであった。雪のような肌も、空を閉じ込めたように透き通る髪も瞳も、記憶に残るかつての姿と同じであった。「黒子。やっと、見つけた」
赤司は思わず表情を緩ませた。しかし___
「すみません。黒子って、誰のことですか?」
「……え?」
赤司は奈落に突き落とされるような感覚に陥った。
夢を見ていた。夢の中で、ボクは教会の中にいた。目の前には大切な人がいるのに、顔も表情も、名前もわからない。重ねた手の体温と、澄んだ声をぼんやりと覚えていた。彼はボクに誓いの言葉を述べて、きっと愛おしそうにボクを見ている。感情が抑えきれなくて、返事をする時には涙を流していた。
夢は、いつもそこで途切れる。
目を開けると、ボクは知らない天井を眺めていた。
「よかった、目を覚まして」
「峠道で倒れていたのよ。おそらく、転倒して頭を打ったから気を失っていたのね。」
視界に老夫婦が映る。どうやら、ボクは頭を打って気絶していたところを、この優しそうな老夫婦に保護されたらしい。
「外傷はなかったけど、大事をとってここで休んでもらっていたの。それにあなた、橋の近くで倒れていたから、荷物がうっかり川に落ちてしまったのね。近くを探したけれど、携帯も鞄も見つからなかったわ。だから、まずはあなたの名前を教えてちょうだい」
「…ボクの名前?……分からないです」
どうやら、記憶喪失というものなんだろう。ボクは、名前も記憶も失っていた。
老夫婦と話し合い、ありがたいことに家に置いてもらえることになった。その代わりに、今は家業である農業を手伝わせてもらっている。失った記憶については、取り戻す方法を探そうと打診してもらったが、丁重に断った。忘れてしまったということは、きっと何もかも捨てたかったのだ。それなら、思い出さない方がいいのかもしれない。だからボクは、過去から目を背けようとした。老夫婦も、その選択を尊重してくれた。
それでも、全てを過去に置いてくることはできないのだろう。ボクは時折、同じ夢を見た。教会の中で、彼から紡がれる言葉も、ボクの返す言葉も、常に同じだ。ボクが返事をしたところで、いつも夢は途切れてしまう。そして、いつもの天井を見上げながら、朝が来たことを悟るのだ。
もう何度も同じ夢を見ている。これはきっとボクの過去なんだ。でも、幾度見ても大切な相手の顔が見えない。つまり、思い出すことができないでいる。どうしようもない歯痒さに、懊悩する毎日だった。
家の近くに教会があると知ったのは、市街地へ買い出しに行った時のことだ。老夫婦に頼まれていたものを買い込むために外出し、集落の入り口付近でそれを見つけた。
外観を見て、ひどく驚いた。どこかで見たことがある、と。ボクは軋む扉を開け、導かれるように中へと入った。埃っぽい内装も、夢で見た景色といくつか類似していた。ここに来るのは初めてなのだろう。それでも、似たような場所を過去に訪れたことがある、と直感した。これは大切な人の記憶を取り戻すきっかけになるのではないか。しかし、全てを捨てたはずのボクが、都合よく思い出してもいいのだろうか。分からないことばかりだ。
「……神様」
ボクはそっと、十字架の前で膝をついた。手を組み、縋るように祈る。神様がいるのかは知らない。けれど、記憶を取り戻して元の世界で生きるのか、全てを忘れたままここで生きるのか、きっとボクはどちらも選びきれない。だからせめて、祈ることにした。ボクの運命や、進む道でさえ、神様が決めてしまうとしても。またいつか、夢の中の大切な人に巡り逢いたい、と。
いつしか、教会へ来ることは日課のようになっていた。農作業や家事の合間で暇な時間を見つけて、時々足を運び、無言で祈りを捧げた。きっとこれも無駄な行為なのだろう。しかし、繰り返される日々の中で、祈るという行為は、心に僅かな安寧をもたらしているようにも思えた。
とあるきれいな冬晴れの日のこと。ボクは今日も日課として教会に向かい、十字架の前で膝をつき、ただ祈っていた。すると、珍しく扉が開く音がした。誰か信者の人が来たのだろうか。
「……黒子?黒子っ!」
…黒子?誰のことだろう。でも、どこかで聞いたことのある声だ。
急いで駆け寄ってくる靴音が聞こえ、肩に手を置かれた。ボクはゆっくりと振り向いた。
「黒子。やっと、見つけた」
振り返れば、そこには美しい赤髪の青年が立っていた。その人を、ボクは見たことがある気がした。
「すみません。黒子って、誰のことですか?」
「……え?」
「つまり、ここへ来た時に怪我をして、記憶喪失になった。その上、携帯や荷物を失くしていたため身元すら分からず、オレや旧友たちを含め誰とも連絡を取れなかった、と」
「おそらくそうなります。ええと、…赤司さん?」
「さん、なんてよしてくれ。水くさい」
「…赤司、くん?」
「うん、それでこそ黒子だ」
彼がいうには、ボクの名前は黒子テツヤというらしい。元々は恋人であったが、突如失踪したボクを、ずっと探してくれていたようだ。信じがたい話ではあったが、交際していた時の写真やメールなど、数々の証拠を見せられ否定のしようがなかった。
「ところで、どうしてこの教会にいたの?」
「説明すると長くなります。…荒唐無稽な話ですが、ボクはよく同じ夢を見るんです。光の差す教会で、大切な誰かといる夢を。ここは夢で見る場所と、どこか似ているんです。ここに来ていれば、いつか記憶を取り戻せるのでは、と思っていました」
そこまで言うと、彼は食いついてきた。
「それは本当か?確かにこの教会は、かつて俺とお前が訪れた場所と似ている。記憶を完全に失ったと言っていたけれど、断片的には残っているんじゃないのか?」
「断片的に…?」
「人間の脳は解明されていない部分も多い、未知の領域だ。可能性は低いが、ここでかつての記憶を再現すれば、取り戻すこともできるかもしれない」
「……ボクは、かつて赤司くんの恋人だったのでしょう。でも、記憶を失くしたボクは、キミが愛してくれた黒子テツヤと言えるんですか?キミと過ごしてきた記憶すら思い出すことのできない、薄情なボクを?」
「何を言っているんだ。黒子は、ずっと黒子のままだよ。記憶を失ったって、その前後で黒子を構成する全てが変わるわけじゃないさ。お前はずっと、あの頃の黒子テツヤと何ら変わりない、オレが世界で一番愛する人間だ」
ああ、なんて優しい人なんだろう。こんな素敵な人だからこそ、ボクは赤司くんを好きになったのかもしれない。
赤司くんはゆっくりと立ち上がり、丁寧に手を取ってボクを立たせた。
「黒子」
慈しむように、愛を囁くように、名前を呼んでくれる。それは目の前に立っている大切な人。古びた窓から清らかな光が届き、焔のような美しい瞳に射抜かれる。重ねた手の温もりに、心臓が高鳴る。
ああ、キミはこんな表情でボクを見てくれていたんだ。
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しきときも、……共に過ごし、愛を持ってキミを支える。敬い、慰め合い、助け合い、オレの命ある限り、真心を持って尽くすことを誓う」
かつて聞いたはずの誓いの言葉が紡がれ、夢の続きが十字架の下で響く。
「だから、もう一度……オレと共に、歩んで欲しい。今度こそ、どんな困難があっても、オレがキミを守ってみせる。愛しているよ、黒子」
静寂の中、脳裏を揺らす心臓の音がうるさい。確かめるように深く、深く息を吸った。奥から湧き上がる気持ちが、激流のようにこの喉を通る。
「…はい。慎んで、お受けいたします。キミの愛を」
その誓いは祈りに似ていた。ぽた、と小さな雫が木の床を濡らした。
「ずっと、待っていたんです。キミが来てくれるのを」
「ああ、待たせてしまってすまないね」
「ボクを探しに来てくれて、ボクの手を取ってくれて、ありがとうございます」
きっと、ボクの記憶が全て戻ることはないのだろう。けれど、そんなボクを受け入れ、ありのまま愛を与えてくれる大切な人がいる。いつかきっと、ボクも同じくらい赤司くんを好きになれるだろう。だって、ボクはずっと同じ黒子テツヤのままで、ボクは赤司くんを愛していたのだから。もう一度、その気持ちを育んでいけばいい。
「ボク、頑張ります。キミを幸せにできるように」
「オレだって、お前をこれ以上ないくらい幸せにしてみせるよ」
「ふふ、負けませんよ」
そうして目を合わせ、笑い合った二人を祝福するように、冬の陽だまりが優しく照らしていた。

「邂逅は祈りの狭間にて」
提供 : 霖雨様
